感 想 野 郎 '99
 
rev.5.B  


 
魔法の国ザンス3 ルーグナ城の秘密 ピアズ・アンソニイ
早川書房
ISBN 4-15-020059-9 C0197 \600E
1984.2.29.初版



Reference Links
Xanth
ピアズ・アンソニイ
魔法の国★Xanth★ ≪魔法の国ザンス≫シリーズ
魔法の国ザンス5 人喰い鬼の探索
 十数年前に読んだ記憶のある本を読み返して、その記憶の糸をたどりながら、またしみじみと楽しめるというのは幸福な体験であることのように思う。
 こういったファンタジーは、多くの場合けっして「現代的」のものにはなりようがない。だけど、ノスタルジックであっても力ある「物語」として存在することは可能だし、「ザンス」シリーズは紛れもなく、そういう、力ある、良質な物語に思える。

 シリーズ1作目の主人公だったビンクの息子、まだ12歳のドオアが主人公となる。八世紀前に17歳の若さで幽霊にされ、人間に戻ってから12年間、ドオアの乳母兼家庭教師だったミリー。そのミリーには、幽霊だった八世紀のあいだ、ずっと付き添っていたゾンビーの恋人・ジョナサンがいた。
 そんな二人に同情を寄せていたドオアは、どうにかしてジョナサンをゾンビーから生きた人間に戻したいと思う。しかし、ゾンビーを人間に戻す魔法の霊薬は、やはり八世紀前、危険な第四時移住時代のザンスにしかない。
 ドオアは時間転移の魔法で、八世紀前のザンスに攻め込んできていた(魔法を使えない隣国)マンダニアの戦士の精神の中に移動する。ひょんなことで仲間になった巨大グモのジャンパーと、17歳のミリーとを引き連れたドオアは、魔法使いルーグナとマーフィの熾烈で紳士的な王座争いにまきこまれ、ゴブリンの大群とハーピーの大群とマンダニアの軍団を相手にしながら、ゾンビーの頭(かしら)から魔法の霊薬を手に入れ、ルーグナへの協力を取りつけようと冒険を繰り広げるのだ!

 ピアズ・アンソニイの物語は、じつに見事な円環を描く。プロップの魔法昔話の定式にほとんどぴったり収まるような、典型的なナラティヴ。
 なるほど現代的な作品ではない。でも、存分に楽しめる作品だったということは、強くいっておいていい。

 なにより、やっぱり、このシリーズを私は好きだなあと、思ったことです。
1999.5.15.
grade [ A- ]


 
男の華園 −A10大学男子新体操部− 2 桑田乃梨子
白泉社
ISBN 4-592-17042-3 C9979 \390E
1999.5.10.初版
 基本的に、桑田乃梨子は「他人事ではない」雰囲気がたっぷりありすぎて困る、というか、「うわぁ〜」などとツボを押されまくってのたうちながら読む作品である。
 文学青年のゆかりちゃんを主人公に置いた男子新体操部でのラブコメというこの『男の華園』も、各種キャッチー要素を盛り込みつつ、「女の子の苗字じゃなくて名前で呼びたいのになんだかずっと呼べないでやきもきするヨワヨワっぷり」などなどで個人的せつなさが炸裂しちゃったりしている。これぞ中学生!っていう!(いや、男子大学生なんですけどね、ホントは)
 こころナゴみます。

 高目安定のラブコメディなんで、おスキな人はどうぞ。ナゴミ系。
1999.5.3.
grade [ B+ ]


 
ショートカッツ 2 古屋兎丸
小学館
ISBN 4-09-179312-6 C0079 \860E
1999.5.20.初版
 古屋兎丸は、先鋭の人ではなく、実際は古典的なナラティヴ(物語)に根幹を持っている。ただ、その表層は、物語をそのまま提出させることなく、分裂し、ノイズをはらみ、しかしそれでもなお、あるひとつの叙情的なトーンに統一しおおせている。『ショートカッツ』が現代女子高生という「ネタ」をコアにしているものの、それが古屋兎丸の(能天気なほど古典的でハッピーな)女子高校生観を下敷きにしている、実際はノスタルジーの力学に基づいた物語であることは、すでにほとんど論を待たない。

『ショートカッツ』に現代性が存するとすれば、それは「90年代式女子高生生態観察」的なところによるというよりは、その表現の、場当たり的な思いつきによる、「物語が物語としての自己批判をし得ないほどに物語であったころ」の物語、あるいはステレオタイプとしての「物語要素」の、「引用」や、ベタなギャグのそのままでありつつ執拗なまでに精緻を欲する図像化という手法によって、不断に異化され、ノイズを挿入され、「ショートカッツ」というタイトルにあるような見開きの2ページあるいは1ページものの息の短さにおいて分断される、という点にある。統一された物語はなく、そこには『ショートカッツ』物語世界のフラグメントがちらばる。
 もちろん、古屋兎丸本人をセルフパロディ化した最終話の見開きにあるように、それは古屋兎丸という個人の美意識の枠を離れることはなく、それゆえに、たとえばこれはジョン・ケージ的な「断絶」というよりは、単なる「フェイク」や「ブレイク」の範疇に収まる程度の強度しかない、と批判することも可能なのかもしれないが、古屋兎丸というマンガ家の依拠する状況が「断絶」というよりは「フェイク」的な好感を基にしたものであることを思えば、その範囲でのクォリティの高さを評価するべきではないかとも感じる。

 ときとして、赤面を感じるほどにノスタルジックでメロウでバナールでセンシティヴな話に唐突に出くわすときもある。子供のころの自分が未来の自分にあてて書いたタイムカプセルの手紙を読み返し、バカだねと思いながらも、子供のころの自分が見た「ぎんがてつどう」を幻視して、「ちゃんと目を開けていないと、大切なものは見えないんだ……」と結論する見開きの短編などその骨頂だけれど、「そうだよなあ」と感じられる雰囲気があって、好感します。


「キュートでポップ! ラブリーでセンチメンタル」というオビのコトバには為すすべなく頭をたれるしかないという具合なので、読んでおいてソンはない一冊だと思います。やホントに。
1999.5.13.
grade [ A- ]


 
返品のない月曜日 ボクの取次日記 井狩春男
筑摩書房
ISBN 4-480-02293-7 C0163 P490E
1989.2.28.初版
 書籍は出版者から取次に運ばれ、それから書店に運ばれる。著者の勤めていた(ている?)鈴木書店は取り次ぎとしては中堅で、都内の大手書店や大学生協に強い取次である。この本にも多くが掲載されている「日刊まるすニュース」は、著者が毎日発行しつづけていた取次から一般書店向けの手書きの情報紙である、そうだ。
 で、これはそういう著者の書き綴った、雑記的ニュース(あるいはニュース的雑記)である。

 面白そうで、その雰囲気がずっとあるので読んでしまうけれど、通して読んでパッとしない本というのがあって、これはその典型かもしれない。本の情報や取次の裏話はそれなりにあって、著者の人柄も伝わってくるのだけれど、それだけ。
1999.5.6.
grade [ C+ ]


 
動物のぞき 幸田文
新潮社
ISBN 4-10-111610-5 C0195 \324E
1998.12.1.初版
 幸田文がかつて雑誌に連載していた、上野動物園の動物たちにまつわるエッセイ集です。というこの説明で、おおかた内容は話しつくした気分になっちゃいますが、「動物エッセイ」に「幸田文テイスト」をつけくわえたものがこれだ、という以上に言いようはない気もします。
 でも、その「幸田文テイスト」が、やっぱりなんともいえずいいんだなあ。

「これは小さい声でお伝えしておく。象君は熟睡すると鼾をかく。それから、おならをたくさんいたします。どっさりするおならですから、そんなに悪臭はないそうです。おならは健康のバロメーターだから、出るに越したことはないといいます。不思議なものでおならの話しを書くと、であるがますになる。語調が、恐縮と滑稽感のために乱れるのである。」(p53)

 なんとも、このひとは、すこやかな感性を持っているんだなあと思わせる文章です。
1999.5.8.
grade [ B ]


 
アゴなしゲンとオレ物語 1 平本アキラ
講談社
ISBN 4-06-336791-6 C9979 \505E
1999.3.5.初版



Reference Links
アゴなしゲンとオレ物語ファンクラブ
 ミニマルキッチュ系ギャグマンガ。主な登場人物は「アゴなしゲン」というむさくるしくてアタマのワルいダメダメな自称運送会社経営者と、「オレ」ことケンヂ、あとケンヂの彼女のちいちゃんの三人(と、たまに出てくる巨大アフロで人相の悪い警官/現場のヒト/ソープの支配人/そのほか色々)

 なんかこう、「ダメだぁ……」感がぜんたいに漂っていて、いいかんじに脱力も出来つつ、微苦笑を拡大再生産できるマンガです。なんとも。


「キタナイツラ」は、あるいはそのアンバランスゆえにか、ヒトをひき付けるところがある。いや、ギャグには、一般日常の「キタナイモノ」の闖入による破壊、に依る点がある(ドリフなんてそうでした)。幼児性、といっていいかもしれない。
「アゴなしゲン」のダメさ・キタなさは、反‐コジャレの極北というか、清濁の「濁」の部分で、一般に受け入れられるレベルの中でボルテージが高くて、いいかんじではある、と思う。

 基本的には「キタナイモノ」より「きれいなもの」の方に傾斜する質なので、留保ナシには誉めたくないんだけど、や、楽しいとは思いますよ。
1999.5.2.
grade [ B ]