| ポップ・カルチャー・クリティーク1 宮崎駿の着地点を探る |
| (青弓社) ISBN 4-7872-7082-6 C0374 \1200E |
![]() その名の通り、ポップカルチャーについての評論集で、0号「『エヴァ』の遺せしもの」と同時に、97年の年末に刊行されたもの。 「外在的批評について」(澤野雅樹) 澤野雅樹の名はエヴァの評論集で見たことがある。その「エヴァンゲリオン快楽原則」の感想にあった澤野雅樹の名前から、あるひとが月下工房を見つけてメールをくれたことで、私には忘れられない名前になっているのだ(あろうことか、私はそのメールを受け取ってからしばらく、澤野雅樹という名前をすっかり失念していた)。 この本を手に取ったのも、冒頭に彼の名があったからである。 で、外在的批評についてだ。外在的批評とは何か。澤野雅樹はあくまでも原理主義的である。ニュークリティシズム派的である。彼はエヴァの最終二話問題を例に挙げてこう言う。制作サイドの資金や時間的な事情など視聴者や作品に関係のあることではないし、ある視聴者(たち)が想定した結末ではなかったと憤慨したところで、それは言いがかりにすぎない。もっとも感想は無制限に許されてよいものだが、それは製作者側の表現の自由も無制限に許されてよいということと等価であり、結局のところそういった無制限に自由が許容された空間には表現や批評は成立せず、「独りよがりの情けない表現と、わけのわからない邪推、そして口汚ない嘲弄などが飛び交い、すれ違うばかりの言葉の屑篭にしかならないだろう」という(これは当時、webやネットで実際にあった「議論」のほとんどが大した力を持ち得なかったということからもわかる)。 「まっとうな批評行為は、まず第一に、ありうべき作品の価値を提示しなければならない。さもなければ、ありうべき作品の水準をその批評が達成していなければならない。」――澤野雅樹はあくまでも原理主義的であって、これには深く私も同感する(だから月下工房は書評「系」なのだし)。批評の存在価値を認めていない人もたまにいるけれど、(前記のフレーズに続く)「批評もまた作品なのだ」という言葉を引用してみれば片がつく。 また澤野雅樹は(第二の例として)『もののけ姫』と『エヴァ』を比較して優劣を決定することの無根拠性を批判する。作品そのものは、ただ作品として存在するだけであり、ある作品が興行的に失敗したのは、ほかの作品が成功したからなどということはありえない。またどうしても二作品を比較したいのであれば、両者を比較し検討する作業に先立ち、ある批評の平面が成立していなければならないし、その平面は、一方の作品に傾くことはあってはならない(これは比較文化論を考えてみればわかるとおりに――レヴィ=ストロースは未開部族の文化的先進性、あるいは後進性を立証しようとしたわけではない)。澤野雅樹は、そのようなスポーツ新聞的言説を、どうして「オレはこっちが好きだ」といえないのかと批判し、個人的な心情吐露をありもしない基準で批評風に粉飾することを断罪する。 (話はずれるが、「オレはこっちが好きだ」を芸の域まで突き詰めたのが、水玉螢之丞のイラストエッセイでありスタパ斉藤の文章であると私は感じている。あの域まで行きたいものです) 澤野雅樹はそのようにして「批評」のよって立つ点を明解にしたのち、「もののけ」評に移っていくわけだがこれは割愛する。とにかくビビッドな文章であった。評論の原点とは「作品周辺のゴシップ」から作品を判断するようなオタク的・あるいは「ギョーカイ的」な心性にではなく(岡田斗司夫の「匠の目」という(制作状況などを判断する)視点の存在も否定するわけではないが、しょせん周辺的なものだ)、作品そのものをいかに「読む」か、という点にあるのだし、その「読み」が作品として自立するレヴェルに至ってはじめて「評論」と呼ぶに足るのである。 しかし、澤野雅樹のようなすぐれた評論の一方で、山田たどんという人物の「アニメ界のケインとアベル」という宮崎・高畑の藤子不二雄A/Fとの類似性を指摘しつつ、そのような「オタク」(宮崎=藤子不二雄F)に振り回される「こんな日本にゃ未来はないってことさ」と断じるだけの堕評や(ちっとも論考として成立していないではないか)、奥中惇夫の「もっと夢を」という「子供向け作品としての夢の存在を『もののけ姫』に求める」、澤野雅樹の批判するようなまさしく「ないものねだり」の堕論も、この本には存在している。いや、「論」の名を冠するにさえ値しない「感想文」である(殊に山田たどんはネットによくいるような「オタクを倦厭するオタク」像そのままで、ウンザリする)。 もっとも「論」ではない文章でも、宮崎作品に絡めて家庭の崩壊を綴った卯月妙子「想いを拾うということ」のような、重く真摯なものもあるのだから、これは文章の特性というよりも、単にクォリティの問題でしかないのかもしれない。 「特集」以外のものには、「〈メディア〉としての梶原一騎」「ゲームから十八禁がなくなる日」「夢の世界を踏破する」「韓国漫画レポート」「スポーツ・スペクタクル主義」などがある。梶原一騎にはキッチュとして以上の魅力を感じていないので「ふうん」としか思えなかったし、 柳田理科雄の「夢の世界〜」はいつもの柳田節で、格別の面白さがあるわけでもない。「ゲームから〜」は、パソコンでの「十八禁」ゲームの深さ・特性を教授と学生との対話意識で探るというもので、これはまあそこそこ面白い(ほとんど縁はないが、まったく縁がないわけでもないしね)。「韓国漫画レポート」は、「前編」ということもあり、状況の概観にとどまる。官憲の迫害の詳報を是非後編に期待する(これは隣国であるということもあり、直接関係はないが非常に「気になる」ことだからだ)。「スポーツ〜」はサッカーワールドカップ予選大会にまつわる日本の報道の「やさしさ」を批判する文章で、言っていることは間違っちゃいないんだろうが、正直サッカーにもスポーツにも興味はないので「ふうん」以上の感想もない。不思議なのは、この文がこの本に載っていることだ。 一冊1200円。個人的には澤野雅樹の論(の前半部)が600円、という感もある。気になった人はどうぞ。 |
|
1998.2.27. Grade [ B ] |
| からくりサーカス 2 |
| 藤田和日郎 小学館少年サンデーコミックス ISBN 4-09-125332-6 C9979 \390E |
![]() 勝救出作戦の中、あるるかん・しろがね・勝の秘密が早くも明らかにされる。そーか。うーむ。 藤田和日郎にとって、作品のいちばんの描きどころは「決意の瞬間」というやつのように見える。しかしそれはクールなどで評されるものではなく、ベタで泥にまみれてカッコワルイが、そこが非常にカッチョヨイのである。たぶん、藤田和日郎の信じる「強さ」とは、そういうものなのだ。オーソドックスな思想だけれど(殊に少年マンガにとっては)、強く確実だ。 物語としてはまだまだ序盤戦に差し掛かったところである。しろがねや勝が、その出自として持つ「強さ」を、どうやって本物の(自分で選択し行使するという意味の)「強さ」に変質させていくかが気にかかるところである。うむ。 |
|
1998.2.21. Grade [ B+ ] |
| ■からくりサーカス 1 |
| 頭文字イニシャルD 10 |
| しげの秀一 講談社ヤンマガKC ISBN 4-06-336718-5 C9979 \505E |
![]() 結局買ってしまった。 ようやく物語が動き始めて面白くなってきたところ。もっとも、物語の密度の薄さという点では前と変わらず、食い足りない部分もあるんだけれど。 この巻の見所はやっぱり「拓海の怒りモード」でしょう。で、その怒りの原因がちゃんと物語に絡んでいるのもいいし(今後の展開が気になりますな)。でも個人的な体験からいうと、「怒り走り」は判断力鈍るので危険です。 内容。拓海の敗北とハチロクのエンジンブロー……だな(かように物語密度の薄いマンガではある)。 毎回このくらい読み応えがあるといいんだけどなと、旧「バリ伝」ファンとしてはそう思うところです(それで、さくっとラリーに行ってくれると楽しい気がする)。 |
|
1998.2.21. Grade [ B+ ] |
|
■頭文字イニシャルD 7 ■頭文字イニシャルD 8 ■頭文字イニシャルD 9 |