ひとくちインプレ 5月号 その2 ひとくちインプレ 5月号 その2
まあ、ざらっと流すためのページ。メモみたいなもの。なんかの役に立てばいいけど、役に立つようには作ってないし立たなくても気にしない〜。まぁそんなこんなで。


「イリュージョン・フード・マスター」那須雪絵
  花とゆめコミックス 97.5.25初版

 ひさびさに出た那須雪絵の、短編集、ということになるのかな。
 表題作の「イリュージョン」三部作は、「わははは」で済むライトファンタジーである。
「世界が終わるまでは」は「なんじゃこりゃーわははは」で済むライトSFである。

 さて。

「踏まれた天使のように」だ。
 珠玉であるかどうかはわからないが、私はこれはかなり好きだ。内容は、タイムスリップもの……というぐらいはいっておいていいかもしれない。
 ああ……これは、うまく感想を言えない。
 タイトルページの「どうしても もう一度 会いたい人がいますか?」という言葉にこの物語は凝縮している。

 やっぱりこれは好きです。
 那須雪絵がたまに描くこういう話は、ほかのライトな話もそうだけれど、すごく好きだな。スペシャルに好きだなあと。
(だから「踏まれた天使のように」はAだと思うのです)

評価 B
1997.5.19.





「オトナになる方法 〔10〕」山田南平
  花とゆめコミックス 97.5.25初版

 部分的に、「あ、これは」と思ったのはp71の慎吾のセリフ――「そんな/ゼッタイ ゼッタイ/味方になって/くれる人が みんなに/一人ずつでもいれば/戦争だって減る/んじゃないかと//オレは/この頃/思ってしまう」。ここにあるメッセージ。
 これが9巻で感じた「大団円に向かってみんなどんどんくっついていく」理由のうちの大半を占める……気がする。

 これは、なるほど、山田南平らしくあるメッセージだ。否定はしないけど、ただまあ、「幸せな結婚でおめでとう」と感じてしまうよなぁ。
(どうも私はニヒリストであるようです)

 ――というのは、恋愛相手は「ゼッタイ」の味方にはならないからだ。(私の思う「恋愛」はそういうもんだ)
「ゼッタイ味方」になるのは、どうしたって「家族」でしかありえないのではないか(もちろんそれは、思想というにはいささか単純な「家族信仰」であるわけだが)。帰るところがそこしかない、家族へ根差して生きている人間は、原理的にその結びつきを否定し得ない。家庭という空間を解体し得ない。シリーズ後半で感じていた妙な「整合性」「教育性」――息苦しさの正体はそれだったのか、と膝を打った。(教育とはもちろん抑圧でもあるわけだし)
 私にはそこまでパワフルな肯定はできないなあ……と感じる。
 これはある意味で少女マンガが(過程はどうあれ)「幸福な恋愛というファンタジー」を描くことの限界である――いや、限界というよりは「特性」といった方が正しいかもしれない。(「Bバージン」は少女マンガにはなり得ない、というようなことだ)

 べつにその特性が嫌いなわけではない。ただ、そういう「特性」があるんじゃないかなあ、ということを予感させてしまったという点は、私は好きではないし評価は高くないのだな。きわめて個人的に。

 それはともかく。

 ……物語のおわりかたとしては、なんともしっくりしすぎるくらいしっくりしている。「ああ、うん、うん」とうなずきながら読める日常回帰型エンディングである。(これでようやく“「オトナになる方法」はオトナになる方法を提示したのか”、という文章が書ける)
 うーん、しかし、なにはともあれ、けっきょくなんだかんだと、キャラクターに惹かれて読んでしまえるシリーズではあったなあ。

 なんだかんだといってはいるが、支持しているシリーズ、ではある。

評価 B+
1997.5.19.





「うしおととら 外伝」藤田和日郎
  小学館サンデーコミックス 97.6.15初版

 外伝である。面白いものは面白かった。それなりの部分もそれなりであった。作者のあとがきの「面白いと思ったものは全部ぶち込んだ」うしおととらもこれで完結である。内容について、いまさらくだくだしくは触れない。藤田和日郎の道は王道である。その是非はひとまず措いて、私は「うしとら」本編もこの短編集もけっこう好きだ。評価している。是非は措く。好きである。それでよし。以上。

評価 B+
1997.5.19.





「モンキーターン 2」河合克敏
  小学館サンデーコミックス 97.6.15初版

 キャラクターが多く出てきたし、ややラブコメ要素も入りつつあり(笑)、前巻ほどつまらなくはない……んだが、ああ、この本栖の研修所が個人的にむかつくので……駄目です。個人的に。

 むかつく……というのはそのスパルタ的な訓練法式にある。
 そういった「スパルタ」「根性」「無意味な整列」方式の練習を否定して、「楽しさ」「強さ」の探求としての柔道を描いたのが名作「帯ギュ」である――とすれば、「モンキーターン」はまるきり退歩であるとしか言いようがない。「競艇選手育成過程」を描く以上、本栖のスパルタ式訓練/体育会系的ヒエラルキーは肯定的に描かれるわけだからだ。
(「帯ギュ」は体育会系ではあったが、メインの登場人物は同じ年齢という設定であり、絶対的な「目上に敬意、できなければ罰」という様式はなかった)

 あー、つまり私はこういう世界観が嫌いなわけだなぁ。枠・籠を最初に強固に強固に設定して、その中で「トップ」を目指す、というような。だから、たとえばオートレースにはまったく興味がないが、バイクのWGPは興味津々なわけです(枠そのものも流動的だからだ)。

 まあ……好きな人はどうぞ。(※投げやり)

評価 B-
1997.5.19.

【『モンキーターン 1』のインプレへ】



「火星転移 下」グレッグ・ベア (小野田和子・訳)
  ハヤカワ文庫SF 97.4.30初版

 後半のクライマックスは結構おもしろかった。しかし、これぞ!!というほどの緊迫感はないのは翻訳のせいなんだろうか。

「ブラッド・ミュージック」や「永劫」「久遠」に通じるモチーフは感じたが、結局のところ、よりそれらの作品の方が描かれているものの「純度」が高いように感じられた。「火星転移」は、良くも悪くも(そしてどちらかといえば悪く)ヒューマンである。

 それと、解説では一人称的視点からの描写であることの有効性について触れられていたが、私はこれが平行視点による描写の物語であった方が面白かったように思える。
 たとえば地球が火星を攻撃する理由は、まあ合点のいかないわけではないが、やはりいささか単純でドグマチックで「物語に都合がよすぎる」ように見える。主人公の視点だけでなく、「地球側の視点」を導入すれば、もっと物語に深みと説得力が出たはずだ。

 まあ、悪い作品ではないです。ベアのファンならおすすめです。
 ファンじゃない人は「ブラッド・ミュージック」とか「永劫」から読みはじめる方がよいかも……とは言っておこう(笑)。

評価 B+
1997.5.18.





「火星転移 上」グレッグ・ベア (小野田和子・訳)
  ハヤカワ文庫SF 97.4.30初版

 グレッグ・ベアのネビュラ賞受賞作品である「火星転移」……の上巻である(笑)。
 まだ下巻が残っているので、この感想は信用してはいけない。わははは。なら書くな>俺。

 内容。22世紀の火星を舞台にした、地球との政治劇である。火星はBMと呼ばれる「家系」の集合体による政治が行われている(大規模テラフォーミングは進んでいない)。地球ではナノテクが興隆をきわめ、多くの人間が遺伝的・生化学的改良を受けている。地球は、太陽系内の統一を目指し、独立した存在でいようとする火星に政治的=経済的圧力をかけてくるが……といったところが大筋である。

 で、評価。
 人間の心理描写がイマイチ浅薄な気がするが、世界像としてはそこそこ魅力的な二十二世紀を構築することに成功している。生活の細部まで浸透するほどのナノテクの興隆や「思考体」と呼ばれるAIの存在は、オールドSF的な意味でのサイエンスマインドを満足させてくれる。
 しかし、世界のディティールが魅力的な一方で、大局的な政治的動向がいまひとつ平板にしか描かれていないのは納得いかない部分だ。GEWA・GSHAという経済的政治連合のディティールが見えにくいのは、火星と地球との政治摩擦を描くという点においては、あまり嬉しくはないことではある。

 あと、翻訳について。可もなく不可もないといったところだが、努力の跡が認められる(笑)。「ドライブしてる」「いけてる」といったようなところは。

 とりあえず下巻を読む気にはなっている作品ではある。

評価 B
1997.5.17.





「娘の学校 同窓会」なだいなだ
  集英社文庫 88.6.25初版

 なだいなだのエッセイ集で、自分を「校長」と称して、四人の娘たち(生徒)に語りかけるという方式を取っていた「娘の学校」というものがあったが、これは、いわばその続編にあたる一冊である。(といっても、両方ともにかなり前の本ではある)

 なだいなだは、日本にはめずらしい「バランスの取れた知性」の持ち主である。

「第五章 大人になることについて」と題された一節での、「『今の××は……』という大人は、自分のアイデンティティを持っていない、人間的に大人になりきれていない人間だ」という指摘からは、あくまでも個人のアイデンティティ・個人の自由を確立させるべきだという著者の姿勢がよくあらわれていて興味深い。(この「年寄りによる若者批判」は人間の永遠の課題でもあるわけだしね)
 なんで「今の××」という批判が精神的未成熟に直結するかというと、つまり、「今の××(若者、母親、女子高生などの言葉が入る)」と対象を概念的存在としてひとくくりに大雑把に批判できる無神経は、自己の帰属するべき場所を「男」だとか「日本人」というところに依拠しすぎている――アイデンティティを喪失している――ところに端を発しているからだ、というのだ。
 じつに、同感である。

 とはいうものの、実際に、そういうアイデンティティの存立様式(構造)を解明してみせたところで、結局変わりようのない人間は「ああ、そういうこともあるかもね」とか言って(VersuS 1のマツザキアサコ氏のエッセイにあるみたいに)30分後にはそんなことは忘れて、社会=世間の鏡であるメディアに没頭しつづけているのかもしれない。あーあ。
(バカは罪悪であると私が言うのはそこらへんです。自戒も含めてね)

 ともあれ、なだいなだは良い。集英社文庫で何冊も出ているので、古本屋で見かけたら即ゲット決定。
 これは命令である。

(付言するなら、表紙デザインのへっぽこさと、そのデザイナーの書いたへちょへちょな「解説」が「……あっちゃ〜」な本ではある。内容はいいぞ!)

評価 A-
1997.5.16.





「ボクはこんなことを考えている」大槻ケンヂ
  角川文庫 96.3.25初版

 エッセイ集である。
 非常に感銘を受けたが、感動はしなかったので評価的にはB+といったかんじだけど、基本的には一流のツボを突っついたサブカルチャーの星、といったところである(なんだそれは)。SMクラブの潜入レポート(笑)が名作である。
(他にも「第五章 恋を知らない少女達」で描かれる「アーティストの周辺の(“追っかけ”の)女の子たち」像は、「オタク文化論」にもなっていて深くふかく肯かされるものがあったりします。“追っかけ”の過剰さはコミケの少女たちにも通じるものがあるし、実際けっこうな部分でクロスオーバーしていると思うからね)

 いや、文章力のあるエンタテイメントとは、こういうものをいうのだ。

 あと、電車の中で読むのに最適な一冊であることをつけくわえておこう。
 電車内限定では最強に近いぞ、これは。

評価 B+
1997.5.16.





「ナチュラル・ウーマン」松浦理英子
  河出文庫 93.10.4初版

 すんなりすっぱり読めたわりに、じつはあまり好きではないのかもしれない。そういう感触がある。共感する部分もあるし、感銘を受ける部分も多いし、小説それ自体のうまさ、文章のスタイリッシュさやアフォリズム的な完成度の高さもひしひしと感じる。けれどこの、女性と女性のあいだのセクシャルな関係を通じた自己同一性到達への志向は……理解はできるが、ああ、完全に共感するということはできないのだ。
 原理的に(私のような)男性は、このような指向性を自己の問題として所有することができない。ディティールの素晴らしさにはフェティッシュな愛好をおぼえても、シンクロニティの点においては不全で不能だ。松浦理英子の小説の根底にある感性は、合一へ到達するようなコミュニケーションの原理的不可能性、といってもいいけれど、たぶんこの一冊にある三つの短編に関しては、そこから幾分か女性に固有の、身体的問題にはみ出した部分が重要のように思えるのだ。

 最後に、解説の下方田犬彦さん……ちょっと誉めすぎかもしれない(笑)。うらやましいことです。

 追記。
 非常に感性的な感想を書いてみると、私はこの一冊を読んで「呑み会で女の子どうしが(小鳥がさえずるように)キスしあって喜んでるのを見ているような複雑な気分」にとらわれたわけだな。
 なぜ「複雑」なのかというと、現在の社会の規定が(もちろんそれは生物学的相違を前提にしたものではあるだろうが)、女性にかわいらしさを、男性にたくましさを認定しているかぎり、男性同士には原理的にそういった行為は不可能だからである(したくもないし)。私は彼女たちがキスしあったりいちゃついてたりするのを見て「うらやましい」わけだが、それは男性としてうらやましいのではない(その相手と自己を置換させたいという痴漢根性が働いているわけではない)。そこにあるのは、「女の子もいいなあ」=「女の子でありたかったなあ」という感情である。
 共感を疎外しているのは、そういった性別の基本的な差異にもとづくものだ。もちろんこれは社会的性役割=ジェンダーの抑圧にも根差しているわけだけど、ハードウェア(ウェットウェア?)としての憧憬はやはりある……と思う。
 でも「そんなこといっても女のことなんかわかんないでしょ」といわれるとそれまでなので、やっぱり男性は男性でしかないよなぁ、というところに相互理解の不可能性がふかくふかく根差しているんだよなぁ、というわけでトホホだ。

(しかしところで、この表紙は卑猥ですね。いいですね)

評価 B
1997.5.15.