2010年01月22日
『魔法なんて信じない。でも君は信じる。』(西島 大介・大谷 能生)
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「世界の終わりの魔法使い」の生原稿67ページが紛失!という事件、そしてその後の出版社とのやりとり、自分の心情のゆらぎをマンガ化したもの。そこに、大谷能生の「マンガ原稿/マンガとは何か」という論考がオーバーラップする。
ゴシップ的な興味ベースでも面白く読めたし、大谷能生の論考は、音楽評論をもっぱらにしている人とは思えないほど「複製エンタテインメントとしてのマンガ」に踏み込んだもので、こちらも大変面白かった。
一部、メモとして。
マンガは戦後の日本において、もっとも早くもっとも広く普及したパーソナル・メディアであり、またそれは、子供でも自由にアクセスすることの出来る唯一のモニター装置だったのである。そのモニターは単純な線と活字しか映し出すことが出来ないほど貧弱なものであったが、手塚治虫はそれを逆手にとるようにして、輪郭線をなぞるだけでも読み手の所有欲を満足させるような「キャラ」を多数造型し、また、彼らに物語と内面を与え、ページをめくることによって広がってゆく時間と空間を創造した。戦後の子供たちは、このような手塚マンガを読むことによって、現在の自分にも容易に手が届く場所において、ほとんど無限とも思える想像力が展開していることに気が付き、彼らの多くは、机の上や布団のなかで、自分がわずかに自分だけで居られる場所において、そのモニターと孤独に対話を繰り返すことで、自身の想像力を育ててゆくことになるだろう。
このようなかたちで子供ととともに成長してきた戦後日本のマンガであるが、彼らが大人になり、また前述したように、マンガ以外にもさまざまなかたちで子供が手に取ることの出来るモニターの数と種類が激増したことによって、これまでほとんどマンガの独占状態だった子供の想像力のリリース先は次第に分散をはじめ、現在ではその特権性が失効してしまっている。「マンガの危機」と呼ばれている事態の見取り図のひとつは、このように描けるのではないかと思う。(p118)
想像力の窓が、(TVモニターの拡散、携帯ゲーム機・携帯電話の普及によって)マンガ以外にも拡散していく、というのは確かに実感出来る状況変化だと思える。個人的にもちょうどその変化の時期を体感してきた、ということもあるけれど。
面白い一冊と思います。この内容でこの値段なら安い。おすすめ。
B++
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