感 想 野 郎 '99
 
rev.11.A  


 
猿のこしかけ 幸田文
講談社
ISBN 4-06-197677-X C0195 \940E
1999.8.10.初版



Reference Links
動物のぞき
草の花
包む
 雑文の名手とかそういうレベルではない、としみじみ思った。これはほとんど、幸田文の人柄である。けれどそれだけに、誰にでもすすめられるものでもないだろう。幸田文がわかるためには、幸田文のようにものを見れるだけの成熟は必要だから。

 随筆、エッセイというものは、ただものごとを見たままに写し取るのではない。というか、そもそも物事を見たままに写し取るなど、コトバの意味内容について、読み手書き手の分別はもとより、人間ひとりひとりにちがった了解があるのだから、不可能というものだ。とまれ、人格を排除する方向の文章も、論文やらノンフィクションやらと、さまざまにあるのは確かで、とすれば随筆やエッセイというものは、そのものごとの写し取りのてつきに、写し取るものの人格や品性がしぜん現れるということにより自意識的に、自覚的にある文章ということになる。幸田文の場合は、上品一辺倒というわけではむしろなく、その文をすかして見える彼女の人格が爽快なのである。鮮烈というには烈しさがないが、あざやかで、地に足がついて気風がよい。

 これだけ言ってしまえば、ほかにどうこう言うこともない。幸田文は、わかるひとにはわかるのだし、好きなひとは好きだろう。
 私はこれは、居ても立ってもいられないくらい好きな作品集でしたけれども。

1999.11.13.
grade [ A ]


 
この人ゴミを押しわけて、はやく来やがれ、王子さま。 イチハラヒロコ
アリアドネ企画
ISBN 4-384-02479-7 C0390 \1500E
1999.11.15.初版
 出会いから別れまでのストーリーの気分をフラグメントに文字に固着させた、というアウトラインはぼんやりと形のようにあるけれど、この一冊を読んで爆笑すると同時にほろりとさせられ、そしてそこで、さて、どうしてわれわれはこのような「文字の羅列であるようなコトバ」にこれほどまでに感情を揺さぶられ得るのか、という地点に立ち帰ってみたりもさせられる。
 なんとなれば、太いゴシック体で白地に黒で簡潔に表出されたその図形は、あまりにも明白にコトバであるからだ。非個性化した表現のスタイルは、受容においては、コトバをよりいっそう個性化させる。逆説めいて聞こえるが、ほとんど、それは単純に、「ここには感情の鋳型があります」といっているようなもので、メッセージの持つ非一回性が強いがゆえに、受け手にとっては、「だれかのコトバ」ではなく、それはより「わたし(受け手)のコトバ」として読まざるを得ないということだ。だから、このコトバ群に対しては、自分を対置させて読むべきではなく、むしろ自分と相似形に読むのがもっとも正しい読み方だ、といってもいいかもしれない。「読む」というより「体験する」というような、客体ではなく主体としての受容としての。
 その無表情な字面の向こうに/(むしろ)あるいはその中に、みずからのコトバとあまりに似たふるまいを見出してしまえば、このコトバ群の背景に予感されるひとつの物語のなかに、共振のポイントを見つけるのはとてもやさしい。(むろんそこに予感される物語は受け手の一回性を基に予感され得る、という意味での物語であり、固有名(たとえば作者や仮構の人物)の存在を前提にはしない(ふるまいをする)物語である)
 そしてその、共振のポイントを見つける、という行為が、あくまでフラットな(抽象的な)“テクスト”を「読む」という行為において、受け手それぞれの一回性をもって現出することである、ということ体験させ、再認識をせまるテクストであるという点(あらゆる表出の様式がそれを裏付けている点)が、イチハラヒロコのテクストの最大の特徴であり、美質であるとかんじる。あるいはこう言ってもいい。ここにはとてもつよくコトバがあると。


 つよいコトバがあるのではなく、つよくコトバがあると。


 コトバ使いのはしくれとして、さまざまな意味でリスペクトすべき一冊。
 必修。

1999.11.16.
grade [ A ]


 
電脳遊戯の少年少女たち 西村清和
講談社
ISBN 4-06-149472-4 C0236 \660E
1999.10.20.初版
 なるほど、良くまとまっているとは思う。著者は「〈遊び〉とはどういったものか」を分析し、それに比して、現代の遊びはどうであるかを、多数の引用や傍証をまじえて論証する。そこに大きな遺漏があるようには見えない。

 ただ、どうにも、ややもすると苛立ちを覚えるくらい、その分析は皮相的に思える。この薄い一冊で現代における「遊び」というコミュニケーションを概観できるのはいいにせよ、もっと掘り下げて扱われるべき事例は多くある。

 おそらく、この一冊の中で最もわれわれが(この文章を読んでいるような“われわれ”が)興味を持つのは、次の一節だろう。

「同じ電子メディアでも電子メールやパソコン通信のチャットは、声ではなく文字によるコミュニケーションである。だがここでも、手紙のように、個人と個人のあいだで重大な用件にかんしてかわされる、基本的には書きことばによって発せられる対話とならんで、他愛のない身辺雑記のような、もっぱらメッセージの交話的機能に特化したコミュニケーションがしばしば見られる。それゆえここではひとは、いわば「話すように文字を書く」のであり、テクストもまたここでは、声と同じように、個人の全体性から遊離する。それはテクストや声の背後に、明確な発信者、著者や作家という個人が現前した近代のコミュニケーションとはちがって、「作者の死」(バルト)や、「発信人も宛先も不明の自律的エクリチュール」(デリダ)に代表されるポストモダンの時代に派生した、あたらしいコミュニケーションの現象といえるだろうか。」(p199-200)

「もっとも恋人や友達同士なら、こうした交話のメッセージは、おたがいが個として、身体としてつよい絆につながれていることの確認に奉仕する。だがそれが、おたがいに顔も名も知らぬもの同士で機能するとき、声やことばの往還によっておたがいにつながれあっていることそれ自体が、同調そのものが目的となる。そこに生じるのは、個人の個有名から遊離して自己を端末化し、メディア化する無数の匿名のものたちのあいだの同調の遊びであり、これもまた、現代の「メディアごっこ」なのである。」(p201)

 著者は、しかしこのように語った後で、

「それは、メディア環境の中で個人から遊離した一種の「主体のゼロ度」(ポスター)の擬態の遊びとして、シャーマンに見られたポストモダンの〈わたし〉探しにつらなるふるまいなのだろうか。だが遊びのメタ・コミュニケーションがゆらぐとき、ひとは境界を踏みまどうこともあるだろう。」(p210)

 と本書を締めくくってしまう。どうにも歯切れの悪さが付きまとう。結局のところ、遊びのメタ・コミュニケーション=「遊び」の関係性を了解する(ための)コミュニケーション、それが(電話やメール、といった)電子メディアの発達や浸透にともない、以前の直接的なコミュニケーション・ルールおよびそれを成立させるメタ・コミュニケーションとちがった性質を持ちつつある現在という状況がある、として、そこにおいてどのような作法がありうるのか、という点には触れられていないのだ。
 全体にこの雰囲気は共通して、だからどうしても、表層を綺麗に攫っただけの言説に見えてしまう(その手つきはスマートかもしれないけれども)

〈遊び〉のコミュニケーションに関しての一節はそれなりの密度を保つけれど、タイトルどおりの内容を期待すると肩すかしを食らう一冊。といったところで。
1999.11.9.
grade [ C+ ]


 
フール・オン・ザ・ホイール 田中むねよし
集英社
ISBN 4-08-857386-2 C9979 \619E
1999.10.24.初版
 田中むねよしは、そのスマートな絵柄とは裏腹に、じつに業の深いマンガ家である。まあ、マニアックだとかエンスー度が高いとか(クルマに入れこんだ愛情を持つ人を enthusiast と呼びます)、そう言い換えてもいいんだけれど、いやあとにかくクルマが好きで好きでたまらないんだなあと思える。
 新刊の「フール・オン・ザ・ホイール」も、これまでの田中むねよし作品の例に漏れず、クルママンガである。まあ、これまでよりは多少コジャレっぽさと直球マニア度を減らして、多分に「一般向け」になっているところが違うけど。
 中堅食品会社のダメ営業・西本と、同期の、とくにクルマにも興味がなく好きなものもほかにもなく、だらだらと暮らしている松田、の二人組が、物語のメインのキャラクターとなる。
 営業成績万年ビリで、いつもへらへらしている西本が乗って帰った営業車は、なぜかいつもより格段に調子がイイ、ということを聞きつけて、松田はその営業車に乗ってみた――すると確かにいつもよりエンジンは軽快に回るようで調子もいい。それ以来なんとなく西本という存在が気に掛かっていた松田だが、ある日、会社を休んだ西本の家に行ってみる。と、そこには、いじり倒されたフィアット500(チンクチェント)があったのだった!……

 といったところで、あとは田中むねよしお得意の、クルマ好きの人情話&エンスー話の短編が続いて、読んでいて飽きない(ページ単位での情報量が「濃く」なっちゃうのがエンスー度の高さを象徴しているんだけど、これがまた、「オトコノコ」モードで読むとはんなりと楽しかったりする)

 クルマ好きと、かつてクルマ好きだったことのある人には、ぜひ。
1999.11.6.
grade [ B+ ]


 
はじめての構造主義 橋爪大三郎
講談社
ISBN 4-06-148898-8 C0210 \660E
1988.5.20.初版



Reference Links
はじめての構造主義
『書評・はじめての構造主義』
読書日記
 橋爪大三郎が書いた本を読んだのは実はこれがはじめてだったりする。内容は、まさしく「はじめての構造主義」。内容の多くを占めるのはレヴィ=ストロースで、かれがいかにして構造主義という思考に辿りついたか、それは大要どういったものか、が非常に平易な語り口でつづられている。

 構造主義は、ものすごく簡単にいえば、システムを問題にする思想だ。で、言ってしまえばシステム(構造)を問題にする、その手つきがレヴィ=ストロースは独特だった。人類学という、それまではキリスト教文化圏=ヨーロッパ文化を至上価値とする価値体系にしたがって「未開人」を研究する学問だったものは、1920年代のマリノフスキー以降、「機能主義」という、それら社会を構成する要素がただ「未開」ゆえのものではなく、それぞれに潜在する「機能」にしたがって構成されている、と考える学問に急速にシフトして行く。しかしレヴィ=ストロースは、その機能主義をも一歩超えて、「未開」社会にも現代社会を構成するそれと同様な〈構造〉を発見する。なぜ機能主義では不完全なのか。なんとなれば、機能主義人類学者たちの分析する「機能」とは、所詮西洋的な知の体系によって位置付けられた「機能」でしかありえないから。
 レヴィ=ストロースは、そうして人類学に新たな地平を切り開いた後、〈構造〉の(つまり人間の思考のレパートリーの)より理論的な抽出の可能な神話分析へと傾倒していく。

 橋爪大三郎が第三章「構造主義のルーツ」でことこまかに解説しているように、構造主義でいう〈構造〉は、非常に数学的で、かつ公正な概念だ。優劣や善悪という価値判断ではなく、どのような仕組みであるか、がそこでは問題にされる。構造主義がアプリオリにポスト構造主義への動きを孕んでいるのは、その出自そのものが、キリストを頂点とする真理の体系/西欧進歩主義を相対化したところにあるからだ――というのは、そこからでも看取できる。

 まあ、結局のところ、個人的にはポストモダン・ポスト構造主義の思考により強く惹かれるところがあったりはする。
 だから橋爪大三郎の、

「なるほど、ポストモダンもいいだろう。しかし、いくらこれまでの思想に関係ありません、という貌をしても、そうは問屋がおろさない。やっぱり思想は思想である。そして思想たるもの、これまで幅を利かせていた思想に正面から戦いをいどみ、雌雄を決する覚悟でないと、とてもじゃないが自分の居場所を確保することすら覚つかないはずだ。どうも(日本の)ポストモダンは、旧世代の思想とまるで対決していないんじゃないか。それをすませないうちは、またぞろ日本流モダニズムの焼直しなんだか、知れたものではないぞ。」(p229)

 というコトバには、「その対決と言うことそのものの位相をずらしてしまうのがポストモダンていうものなんじゃないんだろうか」とも思いもするけれど、あくまで真正直な姿勢には胸を打たれます。(総じて橋爪大三郎という人は、すごく真面目で真摯だなあと思ったことです)

 レヴィ=ストロースをメインにした「構造主義」の、アウトラインをつかむには好適。相当に読みやすいです。
(まあ、興味のないひとにはどうでもいいのも確かなものではあるんだけどさ。多分ね)
1999.11.4.
grade [ B+ ]


 
史上最大の作戦 コーネリアス・ライアン
早川書房
ISBN 4-15-050187-4 C0122 \740E
1995.1.31.初版
「史上最大の作戦」〈オペレーション・オーヴァーロード〉、こと、第二次大戦中のノルマンディー上陸作戦の様子を、千人以上へのインタヴューを元に、細かいエピソードを積み重ねることで再構成したもの。
 1944年6月6日に15万6千人以上の兵力を投入して行われたこの作戦は、英米のパラシュート部隊の夜間降下から始まり、日の出後に、航空部隊の支援を受けた上陸部隊による、海岸への強襲上陸が続く、というもの。しかしその戦争は、パラシュート部隊は目標から何マイルも異なった地点にばらばらに降下してしまうわ、上陸部隊でさえも上陸地点を取り違えて他の海岸に上陸してしまうものもあるわ、ロンメルやヒトラーのもとに敵上陸のほうが届けられたのは交戦開始後数時間を経た後だわ……といったもので、現代戦とはあまりにも違った、血みどろで人間くさい様相を呈している。まあそれも、インタヴューをもとに、あくまで一兵士・一市民・一レジスタンスの視点からこのドキュメントがつづられているから、余計にそう見えるのかもしれない。
 ただ、そのぶん兵士たちの感じた恐怖・焦り・混乱は、断片的だけれども胸に迫るリアルがある、といえるかもしれない。先鋒となり海岸に上陸したレインジャー部隊の、ほとんど一方的なまでの殺戮の様子や、その場に生き残った兵士の心情や言葉は、「もし自分がその場にいたらどう行動できただろう」と、あくまで肉体感覚に基づく感傷を呼び起こす。なぜだか、そのくらいに痛みは近い。

 ヴェルレーヌの『秋の歌』(「秋の日のヴィオロンのためいき」)が作戦開始をレジスタンスに告げる暗号だった、っていうのを知れただけでも、価値ある一冊だったと思います。その他の面では、人間ドラマがメインになっているわりに、個々人の書き分けや描写に深度がないといったきらいもないではないものの(兵器の描写はほとんどない)、総じて悪くはない作品と思える。

 ザッピングするように、ノルマンディー上陸作戦のアウトラインを掴むのに好適な一冊。
1999.11.3.
grade [ B+ ]